虫取りで蘇生するヒトとしての自然性
どうも、ツキオです。
為替相場がお休みの日は、暇ですね。
たまには、ブログらしく雑記というかエッセイを書いていきたいと思います。
僕、最近、虫取りを始めたんですよね。
最初は4歳になる息子の遊びとしてはじめたんですが、もうこっちがやめられなくなってしまって笑
明日なんか、夜明けとともに起きて、コムラサキ捕まえに行く予定ですから・・・
なんで虫取りのことなんか書こうかと思ったかというと、毎週末虫取りをするようになってから、調子がいいんですよね、なぜか。
身体も心も。
軽いというかなんというか、健康な感じになってるんです。
「あ、この感じいいよ。すごくいい感じだから、続けてね」
って内側から言われてるような気さえしてます。
この感覚って「自由」というか「幸せ」というか、僕が目指している人生のカタチに「かかせないもの」だなって直感があるわけです。
なんでだろう。どうしてだろう。
虫取りにどんな効果があるんだろう。
って漠然と考えていたんですが、たまたま答えが分かったんです。
通勤中、よく著名人の講演の切り抜きを聴くんですが、その日は養老孟司先生でした。
その内容が素晴らしくって!
いわく、
現代人の仕事場(オフィス)って、生物が存在する場所としては、甚だ不自然で、不親切なシロモノらしいんです。
同一の気温、湿度、明度。
風も、陽光も、有機的な匂いも、生物的な緊張も悦びもなく、ただあるのは潔癖の人工物のみ・・・
生物ってのは、自然に適応することに幸せを感じるんです。
そういう風に決まっているんです。
それなのに、オフィスってのは、不自然すぎる。
現代人の疲れやストレス、心の病気の多くがその“不自然さ”から来ている、というわけ。
確かにな、と思いました。
で、先生は続けます。
とにかく勤め人ほど、休日は積極的に自然に返らなければならない、と。
生物(ヒト)としての本能を刺激して、自分があくまでも動物である、ということを思い出させてあげないと、ドンドン生物として“不自然”な方へいっちゃう、と。
これ、本当にそうだな、って思ったんです。
虫取りをしていると、なんだか気持ちがいい。
公園や城跡や遊歩道を歩いて息子と蝶や甲虫を探すんですけど、見つからなくても、ただ歩いているだけで充たされてる感覚になります。
改めて、自然を感じようとしながら歩いていると、実に様々なことに気付かされます。
その日の温度や湿度、日が陰っているか照っているか、時間帯や風向きで、本当に全然、虫の居場所って変わるんです。
探せども探せども見つからなかったのに、風が少し出てきたな、と思ったらどこからともなく蝶がヒラヒラと舞ってくる、とか。
ん?ちょっと汗ばむな、暑くなってきたな、と思ったら急に虫の鳴き声であたりがさわがしくなったりとか。
自然の絶妙なバランスと言うか循環というか相互作用を少なからず感じるようになります。
そうすると、なんか自分もやっぱり自然の一部なんだっていう気がしてきて、穏やかな気分になってきます。
風の匂いや、かすかな虫の声や、光の加減で絶えず変化し続ける葉の緑色をゆっくり味わうこと、虫取りよりそっちのほうがメインになってしまうこともしばしばです。
養老先生の話に戻りますが、先生はこうも言われていました。
かつてヒトは誰もが「自分は大きな自然の一部なんだ」という感覚を持っていた。
大地に立っていると、足の裏と全世界がつながっているようで、つまりは、横に立っている他人も大地を介して自分と繋がっている「一部分だ」と認識していた。
先人たちは死を迎えるとき、「土に帰る」「土塊になる」といったが、これは身体が失われようとも、カタチを変えて、なお自然の一部であり続ける、という感覚から来た言葉だ。
自分は自然の一部、他人も自然の一部(つまり自分の一部)、死んでもやっぱり自然の一部、というわけだ。
いや、これが生物として正しい感覚だよなって思うわけ。僕は。
みなさんはどう思います?
“不自然”な場所やことが多すぎる世の中だから、僕らは幸せに生きるために積極的に自然に返る必要があるんじゃないでしょうか。
登山でも、釣りでも、カヌーでも、キャンプでも、虫取りでもなんでもいいけど、自然を感じる趣味を持つっていうのは、これからの現代人のマストになると思う今日このごろです。
自然って平等だし、優しい。
明日は、コムラサキ捕まえるぞ!!
では、また。(^o^)